2001年7月6日更新
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冨さんが選ぶ 日本の祭りシリーズ 毎月1ヶ所紹介いたします。

富さんこと、富坂弘昭(とみさか ひろあき)。
東京神宮外苑で開催されていた「日本の祭り」や「日本民謡大賞」の演出を15年にわたり担当。また国技館や都庁のこけら落としなど各種のイベントの演出を手がける。好きなものは祭りと酒と人間。業界関係者からは富さんの愛称で慕われている。北海道出身。

 

4月の祭り

日本の祭り No.     2001.6.29

 日高火防祭
(岩手県水沢市・日高神社/四月二十八・二十九日)

 みちのくの遅い春、そこに忽然と彩りの見事な花が咲き揃う。それも静かに品良く・・・。それが岩手県水沢市の「日高火防祭」です。「はやし屋台」の華やかさ、日高囃子の落ち着いた響き、この双方が相俟って春の訪れを喜ぶ美しいアンサンブル醸 し出します。

 日高火防祭はその名の通り、防火祈願の為に行われるものです。この祭りの起源 については二つの説があります。一つは、江戸の「振袖火事」を経験した城主が帰水 し、町内消組を組織したのがはじまり。もう一つは、享保二十年(一七三五年)の水 沢の大火を機に江戸の火消しを学ばせ、町火消組を作り、その記念行事が発祥というものです。どちらにしても、防火を願う心と、神仏の加護により未然の防止をという 祈りが一体となり、神社の例祭行事として継承され、現在に至っているのだと思いま す。因みに、日高神社には火産霊の神(火の神)が祀られ、祖霊社の瑞山神社は 「瑞」は水に通じるとし、両社に祈願したものと思われます。このことは、祭りがかつて旧正月の二十二日だったことを考え合わせると、この祭りの元々の起源は農耕民族としての春迎えの祭り・・・明るい陽射しと水・・・であったことを示唆してくれます。

 それが時代を経るにしたがって火事が大きな問題となってきます。「村八分」という言葉をご存知と思いますが、ここで許されている二分は火事と葬式、それ程その土地の住民にとって火事は恐ろしいものだったのです。そこから防火に心が動いてゆくの はごく自然のことであり、神社も火と水に因むものであれば、尚更のことです。

 起源のことはお判り頂けたこととして、現在の祭り本体のことに入りましょう。祭りは四月二十八日の前夜祭から始まります。夕刻から九時頃まで駅前通り会場に、 翌日の本祭りに出演する「はやし屋台」のうち三台が繰り出され、その他賛助出演として数々の演し物が出演、駅前は熱気で盛りあがり、居合わせた人々は明日への想いを馳せます。四月二十九日朝、各町内の年番長に続き「町印」「打ちばやし」が日高 神社に参拝、祈願の御守札を受け、各屋台に戻り、そして屋台に供えます。「町印」とは藩政時代」に作られた六町の 町火消組を象徴するする竿鉾で、五メートル程の木竿に火の象徴である赤い玉、そして水の象徴である馬簾をつけ、それに町名との藩主が与えた「仁心火防定鎮」(仁心を以って火防定鎮す)のうち一文字が記されて います。パレード運行の順に記すと、横町組一定、袋町組一鎮、川口町組一仁、柳町組一火、立町組一心、大町組一防となります。この「町印」に続くのが「打ちやし」です。「打ちばやし」は六町から一台ずつ曳き出される屋台で、実はこれが祭りの本体で、男の子が大太鼓を、そして幼児数人が小太鼓を打ち、笛師二人が横笛を吹きます。この「トットコメェ」と呼ばれる曲は六町とも同じで、あとでご紹介する「屋台ばやし」とともに格調の高い曲で、火防祭の「屋台囃」として、岩手県の無形 民俗文化財に指定されています。

    パレードの出発地点は市役所前大手通り。六町組の「町印」「打ちばやし」「はやし屋台」そして後に加わった駅前三町組、城内組、吉小路組の「はやし屋台」も集 合します。午後一時三十分、実行委員会の合図のもと、祭りの大パレードの出発となります。消防団の纏振りを先頭に各町組の年番長の指揮のもと、町印、打ちばやし、はやし屋台の順に進んでゆきます。殿りをつとめる「はやし屋台」は元来この祭りの アクセサリーであったのが、明治以降時代の流れにより華やかになり、主人公の座を得るようになったと言います。今では金・朱・碧色と、色とりどりに彩色された美しい四台の雛壇飾りの絢爛たる屋台として、祭りの人気を一手に集めています。更にこ 
の屋台には若い三味線をもった娘さんが五人と糸会わせの師匠一人、早乙女と呼ぶ小太鼓を打つ少女達が十五〜二十名、それに横笛の男衆が二名がのり、その町組の囃子を奏でながら優雅な風情を撒き散らしつつ行進してゆきます。なかでも早乙女の少女達は、主役をつとめるお姫様。小太鼓を打その姿に、沿道から、ほうという嘆声がもれます。「屋台ばやし」は因みに「一声」「祇園ばやし」など数種類あり、屋台のどこかに曲名を見つけ、聞き比べてみるのも楽しみの一つです。

    北から南へと行進したパレードは午後五時半頃中央通りに到着し、各屋台は休憩となります。そして周りが夕闇んいつつまれる頃、屋台のぼんぼりが一斉に灯され、昼間とは一変した華やいだ姿を見せます。午後七時、花火の合図で水沢駅前に向い、その駅前広場で、この祭りのクライマックスとも言える「相打ち」がはじまります。 闇の中に二台の屋台が向い合いうかびあがるさまは、春の宵に相応しい光景と言えます。そして屋台の上の部分だけが回り、観客にその華やかさを更に印象づけるのです。この間約一時間半、広場そして駅前ハりは人々で埋めつくされ、興奮のるつぼと化し、みちのくの春の宵を心ゆくまで楽しむのです。 
 
 
 
 
 
 

 


 
 
 
 
 
 

             
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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3月の祭り

日本の祭り No.7     2001.6.29
 

泥打ち祭り
(福岡県・杷木町/はきちょう・阿蘇神社/3月28日)

冬が終り、春の声を聞くと、水田耕作を主とするわが国では、全国各地で豊作を祈願する祭りが行なわれます。他の季節の祭りに比べると地味ではありますが、米を主食とする日本人にとっては欠かすことの出来ない大切な行事なのです。今回はその中でもユニークでユーモラスな祭りー福岡県朝倉郡杷木/はき町大字穂坂阿蘇/おおあざほさか神社の「泥打ち祭り」をご紹介したいと思います。この祭り、正式名称は「阿蘇神社例祭」で、県の無形文化財にも指定されています。それではちょっと福岡県の地図を開いてみて下さい。杷木町は福岡県の南部の東端にあります。そこから東へ目をやると大分県は日田市、町の南には西流する筑後川があり水田地帯になっています。水田背後の山麓部ではブドウ、ナシ、柿などの果樹栽培が行なわれ、又9月には大量のひまわりが咲き乱れ、更には温泉もあるという豊かな自然とのどかで素朴でやすらぎのある町です。
さあ祭り当日です。正午、太鼓の音を合図に氏子達が公民館に集まります。おみくじで祭りの主役「大宮司/だいぐうじ」を決める為です。おみくじは小指の先大に丸めた紙で、一つだけ「福」と書かれており、それをひいた人が「大宮司」となるのです。大宮司は田の神、豊作の神そして福の神です。この大宮司が地区の外れの道祖神まで歩く約500mの間に泥を打ちつけられ、塗りつけられるのです。そしてその泥がよくつく程豊作だといわれているのです。このことはご神体に泥をつけることで地区全体の田の土が清められ、そして力を与えられるのだと信じられているからです。
大宮司が決定すると膳が用意されみんなで酒をくみ交します。当然のことながら杯は大宮司に集中します。こうして泥打ち祭りがはじまるのです。そして午後2時、一同は神社に向かい「神事」となります。祝詞/のりとがあげられ、お祓いをうけ、そしてここでも直会/なおらいとして五つ組二升入りの大盃がまわされます。大宮司の酒量は増すばかり。そして午後3時、いよいよ御神幸です。純白の神衣に着替えた大宮司が、境内/けいだいに設けられた「神の座」につきます。その傍らには「神田」から運ばれた土で泥がこねられており、うちこ打子と呼ばれる小学5、6年の男子12名が、神紋入りの紺の絆天、白ダスキ、〆縄の帯、白手拭をかぶった姿でそのそば側に待ち構えています。そして大宮司が泥土の中に座ると同時に、一斉に大宮司の身体に泥を塗りつけます。白い部分が残らないように、そして両袂/たもとにもかなりの量の泥を詰め込みます。大量のお神酒/みきで酔いのまわった大宮司、泥の重さと相俟/あいまってフラフラと立ち上がり、雌、雄の獅子の先導で道祖神までの御神幸が始まります。両側に2人の青年が付き添い、よたよたと神社の石段を下り、参道をふらりふらりと行きます。すると又しても道筋の3〜4m毎に用意してある泥土を、打子達がよろめく大宮司めがけて投げつけます。泥つぶては見守る氏子や見物人、はては民家にも飛びます。大宮司は、へなへなと座りこむかと思えば、道沿いの家に寄りかかったり、大変な状態です。それでも一歩一歩進み、ついには道祖神に行き着くのです。到着後、泥のつき具合を見ての判定は、必ず豊作。道中の過程を見れば即座に納得です。先人の豊作に対する願いが、如何に強いものであったかをうかがわせ、そしてジーンとさせてくれるユニークないい祭りです。
 

 


 
 
 
 
 
 

             
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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1月の祭り

日本の祭り No.6     2001.2.4

西大寺会陽/さいだいじえよう
(岡山県・岡山市西大寺/2月17日)

何千人という褌一つの裸の男達が、幸福を呼ぶといわれている2本の″宝木/しんぎ″を奪い合う祭りーそれが″西大寺会陽/さいだいじえよう″で、別名″はだか祭り″とも呼ばれ、正月修正会/しゅうしょうえの結願/けちがんの日の行事です。修正会とは、毎年正月、諸宗の寺院で行なわれる年始の法会で、その年の天下泰平・五穀豊穣を祈る読経が修められます。西大寺では14日間にわたり行なわれ、そのあとに続くのが裸押しの行事、″会陽″なのです。″宝木/しんぎ″は直径3cm、長さ20cmくらいの木の棒で、仏教の三宝を表しているとされる3つの切り込みが入っています。宝木は14日の間祈られ、香の匂いがしみ込んでいるといいます。昔は結願の日に祈りを込めた″午玉紙/ごおうし″を授けていたのが、この符には福を得て、豊作に恵まれるご利益があると信じられて希望者が殺到し、奪う合いようになり、破れやすい午玉紙を木の棒に巻きつけ投げ与えることで、宝木に替えたと伝えられています。又裸になった理由は、着物を着ていてはもみ合いの中で身動きがとれない、たもとをひっぱられる、裾をふまれて怪我をする、などからそうなったといわれています。さて、今年、宝木を手にすることが出来る″福男″は誰れか?会陽は午後8時の一番太鼓から始まります。いよいよ臨戦体制です。褌一つの男達の群れは仁王門から入って来ます。そしてこ垢りば場へ行き水で身体を浄め、その後午玉所宮に参り四本柱を通り、本堂を一周する形で、舞台となる本堂おおゆか大床へ急ぎます。二番太鼓は午後10時。この頃には境内周辺は見物客で超満員、大床では裸の男達が両手を上にのばし、良い位置を確保しようと中へ中へと入ってゆきます。その都度裸の群れが左右前後にゆれ動きます。寒気が一段と厳しくなってゆく中で男達は活気づき、もみ合い、気分を昂揚させ、熱気で大床には湯気がたちはじめます。そんな中、裸群の中から「水!水!」の声があがり、せいすいがた清水方が柄杓で水をまきます。宝木投下の午前零時が近づくにつれ、大床の雰囲気はある種異様なものになってゆきます。11時59分に境内全体の電気が消されます。その前に修正会を終えた僧侶が本堂2階にあがって来ます。さあ間もなくです。11時59分、電気が消えた!と同時に100本の″くしご″が投下され、喚声があがります。くしごは柳の木を5〜6本に裂いたもので、おふだ札に包まれ、両端にしきみの葉がついていて、宝木に準ずるものです。闇の中、青白いストロボの光で奪い合いの姿がとぎれとぎれに浮かびあがります。そして提灯が振られ、零時ジャスト、2階の″おふくまど福窓″から住職の手で束にされた2本の宝木が投げ入れられます。更に大きなどよめきがおこり、肉体の激突がはじまります。これも闇とストロボの明かりのみ。零時30秒、電気がつきます。ここで見物人はやっと全体の動きを目の当りに出来るのです。宝木のあるあたりは髪の毛の黒一色、その回りは上気した肌の色。それが渦となり大床から境内に移り前後左右に動きます。2本の宝木がわかれた時、たちまち渦は2つになり、それぞれ激しく渦巻きます。宝木を手にした者は、はやく境内の外に出ようとします。それは境内の外での宝木の奪い合いは禁止されているからです。チームプレーで陽動作戦を展開するところもあるそうです。さて運良く宝木を手にした福男は境内を抜け、宝木の納め場所に向かい、用意された「一升枡」の米の中に宝木をつきたて、この祭りは終わるのです。
さてこの祭りには宝木を取るばかりでなく、様々な願い、想いをかける場として参加している方もたくさんいます。亡き知人、親類を弔う、奥さんの安産を願う、夢がかなえられますようになど。この祭りは西大寺の町の人々の暮らしに深く結びつきながら育まれてきた祭りなのです。

 


 
 
 
 
 
 

             
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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12月の祭り

日本の祭り No.5     2000.12.5

な ま は げ
(秋田県・男鹿市/12月31日)

12月の声を聞くと、はやくも新年への秒読みがはじまります。さて今回は祭りというより、この時期、その土地・そこに住む人々にとって欠かすことの出来ない″民族(行事)″を取りあげたいと思います。それは、秋田県は男鹿半島に伝わる、ご存知″なまはげ″です。顔の倍もあるような鬼の面(地区によって違いがある)をつけ、ケデと言って藁で編んだ衣裳(蓑)、手甲、ハバキ(すね脛あて)をつけ、藁の雪沓ぐつをはく。そして右手には大きな銀箔の出刃包丁を持ち、左手には手桶を、又あるものは幣束を持つ。まさにこの出立ちで、雪を踏みしめながら″ウォー、ウォー″奇声をあげて、家々を廻るのです。

″なまはげ″の言葉の語源は″ナモミハギ″。ナモミとは、こたつや囲炉裏にあたってばかりいると出来る火形の赤い斑点のことです。ナモミをはぐーなまはげという名称には働かない怠惰な人間を戒しめるという意味が込められているのです。現在この行事は12月31日の夜に行なわれていますが、戦前までは、旧暦正月15日の夜に行なわれた、いわゆる小正月行事でした。この行事は、一般的には、めでたい春を迎えるにあたって、1年間のけがれや災厄を払い、なおかつ新しくすがすがしい年の祝福を授けに来る遠来の神を歓迎するというものです。男鹿の場合、なまはげこそが、その年神様の代理者であり、仮装神であるわけです。祝福を授けに来る神が怠惰を嫌い、そして″なまはげ″と呼ばれているー先人の考えの深さに頭がさがります。

それでは真山地区の様子を見てみましょう。12月31日午後6時、青年会のメンバーが準備の為公民館に集まって来ます。真山地区のなまはげは4匹、角がないのが特徴で、面は代々受け継がれて来たものです。身支度が整うと出発の儀式が行なわれ、その後伝統的な作法を確認する為、公民館の中で第一声をあげ動きならしをします。そして今度はなまはげの魂を入れる儀式に臨むため、真山しんざん神社の拝殿に向かいます。ここで1年振りになまはげの魂は若者達の身体によみがえり、1年間の厄払いと新しい年の家内安全、五穀豊穣、豊漁をことほ寿ぐ神様のなりかわりとなるのです。この地区では若者7〜8名が1組となり、二手に分かれて家々をまわります。

まずは先達と呼ばれる若者がなまはげの到着を知らせるために先行します。なまはげは到着すると家にあがる前にまず7回しこ四股をふみます。そしてそれから″泣く子はイネエがー、怠け嫁怠け婿イネエがー″と家の中をひと回りしたところで正装した主人にうながされもてなしの膳につくのです。その際は5回のしこ四股をふみます。そしてもてなしの膳を立つ時は3回しこ四股をふみ、そして次の家へと急いで行くのです。なまはげのおとした藁は、神棚にあげたり、安産のお守り、頭痛を払うものとして大切にされます。さてなまはげが去った後、家の人は″カマスもち″と呼ばれる若者に捧げ物をして餅やお金を渡し、労をねぎらい送り出してこの家のなまはげ行事は終わるのです。

何百年も続いている″なまはげ″行事。この現代にあっても、なまはげを迎える人達のイキイキした表情を見ると、この行事がただ単に幸福を祈る行事というだけではなく、厳しい気候、風土で暮らす地域の人々の間に温かい血をかよわせるパイプ役として存在しているように思えます。だからこそ、時を経て連綿と受け継がれてきたのではないでしょうか。

最後に″なまはげ″を是非見たいと言われる方に、2月13日〜15日に真山神社で、″なまはげせど柴灯まつり″が行なわれていることを付け加えておきます。
 


 
 
 
 
 
 

             


 
 
 
 
 
 
 


 
 

写真提供:男鹿市観光商工課
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


11月の祭り

 
日本の祭り No.4     2000.11.22

妙見宮大祭
(熊本県・八代市/11月22・23日)

祭りというものが世間の注目を浴びる一つの要因は、祭りの見世物的要素となるお練りなどの″風流ふりゅうぶり″にあると言えます。″風流ふりゅう″とは元来は華やか、きらびやかを意味する言葉ですが、民族芸能では、華やかで、きらびやかな演物、例えば山車だしや花傘、獅子舞、仮面や仮装、各種の行列のことなどを言います。

さて、これからご紹介する八代市の″妙見宮大祭″は多種多彩な風流が参加する神幸行列で知られているお祭りです。この行列の正式名称は、″八代神社(妙見宮)祭礼神幸行列″で、熊本県の重要無形民族文化財に指定され、更には長崎おくんち、博多祇園山笠と共に九州の三大祭りの一つに数えられているお祭りです。
ここで祭り(神幸行列)を理解する上に必要なことを二、三説明したいと思います。

八代市は熊本県の南西部にあり、市の西側は八代海(不知火海しらぬい)に面しています。不知火海の向こうは天草、長崎そして東シナ海に通じています。これが一つ。

次に、八代神社は江戸時代まで妙見宮と呼ばれ神仏混交の宮寺であり、妙見菩薩と、神道では国土の永遠の安定を意味する神・国常立尊くにとこたちのみことが祭られていました。妙見信仰は古代インドを発生の地として、中国を経て奈良時代に日本に伝来し、一般には長寿、息災、招福の仏として信仰されました。これが二つ目。

さてお祭りには何時の世でもお金と人手がかかります。それを支えてきたのが歴代の領主達。加藤家(清正他一代)、細川家(忠興他三代)、松井家(興長、寄之、直之)。松井直之晩年の元禄期には、それまでの武士中心の祭礼に町衆・百姓衆の参加を決め、ここに今日の豪華な祭礼行列の原型が成立したと言います。これが三つ目。
以上の三点を念頭において行列をみるとその演物の出所がわかると思います。

祭りは11月22・23日の両日で、22日は、″お下くだり″と言い、午後2時頃、八代神社から4.5キロ程はなれた塩屋八幡宮へと神輿が渡り、納められます。翌23日が″お上のぼり″で、神輿が八代神社に還幸する日です。これにたくさんの珍しい風流がつき従うのです。出発は午前8時。行列の並びは以下の通りです。

1獅子2奴3木馬きうま4鉄砲5毛槍6白和幣しらにぎて7籠8笠鉾(きくじどう菊慈童)9神馬しんめ10甲冑武者11大麻ぬさ12大太鼓13神官14阿須波あすはの神15火王ひのおう・水王みずのおう・風王かぜのおう16奏楽大太鼓17奏楽18四神旗19金幣20弓矢21対のお槍22お太刀23神輿24長刀なぎなた25紫翳むらさきさしば26菅翳すげさしば27中傘28斎主。そして笠鉾が続きます。笠鉾の名前です。29本蝶蕪ほんちょうかぶ30蘇鉄31西王母32猩々しょうじょう33蜜柑みかん34恵比須35松36迦陵頻伽かりょうびんが、そして37亀蛇きた゛38飾馬かざりうま(花馬)12頭。

それでは主なものを簡単に説明して参りましょう。1の獅子は道筋を浄める獅子で、雌雄1対。雄は角が2本で赤と白のふさふさした毛でおおわれ、雌は1対で毛色は赤と黄です。そしてここに獅子をあやす弁髪べんぱつの玉ふり童子が居ます。伴奏もチャルメラ・ドラ・ラッパで、まさに中国風です。2の奴は百姓衆の参加によるもので、大名行列花奴の法の伝授をうけたものです。3の木馬は江戸時代、八代城下に住む七五三を迎えた商人の子供によって12頭奉納されていたものを昭和62年に復元したものです。8の傘鉾は町人衆の参加によるもので、六角の朱塗りの二層の屋根(中国風)を持ち、屋根の上には飾り物をのせています。因みに菊慈童は古代中国の皇帝に仕えた少年で、菊の葉にしたたる水を飲んで仙人となり七百歳になっても子供のように若々しかったことで、この傘鉾は長寿を願う人々の思いをあらわしていると言えます。他の傘鉾も同様に妙見信仰の長寿、息災、招福をあらわしたものと言えます。この傘鉾こそが″妙見宮大祭″の主旨を伝え、風流を最も豪華にみせているものだと思います。

領主の祭礼への本格的な参加は細川忠興からだと言えます。忠興は寛永13年(1636)に神輿を造らせ、その天井には自ら龍の絵を描いたと言います。そして神輿屋の他寺社家の装束、祭礼諸道具等も寄付しました。23の神輿はその時のものです。他にも武者行列の要素が多々見うけられますが、馬も例外ではありませんでした。9の神馬は代々八代城主の愛馬の中から出され28の飾馬(花馬)も家臣国の上級侍から出されていたのです。さて、行列の中にあって、とりわけ人気をよぶのが37の亀蛇きだです。八代ではガメの愛称でしられるこの亀蛇は、胴は亀だが首は蛇という想像上の動物です。言い伝えでは、その昔妙見様は、はるか中国からこの亀蛇に乗って海を渡って来られたといわれています。畳4枚ほどの真っ赤な背中に白い亀甲印、グロテスクな黒緑の顔に、大きな目玉で観衆を見下ろして歩きます。道中大いに暴れ、2メートルもの赤くて太い首を観客の頭ごしに、思いきり突き出しては、ギャーと悲鳴をあげさせ驚かせたり、笑わせたりします。

祭りが最高潮に達するのは、午後1時頃からみずなし水無川の砥崎の河原で行われる神事芸能の紹介と演舞の時です。市中とはちがい、この広々とした空間が、芸能の担い手、そして観衆をも興奮させます。傘鉾も凛としてその姿を映えさせます。亀蛇は土手を駆け下り浅い流れを水しぶきをあげて走りまわり、縦横無尽、時には観客を追いまわします。花馬は威勢のいい若者達に呼応するかのように、目を血走らせ突っ走ります。声をからす警固の声、あわてて土手を逃げる人達、観衆の歓声、両岸を埋めつくす観客そして祭りの担い手は、ゆく秋を、″妙見さん″のお祭りを惜しむかのように今日この一日を楽しむのです。


 
 


 
 


 


 
 

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10月の祭り
 
日本の祭り No.3     2000.10.8
西条まつり
(愛媛県・西条市/10月14〜17日)

秋は祭りの季節です。日本全国、そこかしこで色々な祭りが行なわれています。秋は又、食べ物の美味しい季節でもあります。祭り見物を兼ね、郷土色豊かな料理を楽しむのも如何なものでしょうか。
さて、今回は、四国は愛媛県・西条市の「西条まつり」をご紹介したいと思います。西条市と言ってもピンとこない方もおいでだと思いますので、まずはその場所の説明を・・・。

西条市は、松山から東へJR予讃線特急で約1時間。南に西日本最高峰の石鎚山(いしづちさん)を仰ぎ、その石鎚山に源を発する美しい加茂川が瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)に注ぐところ。そこに西条市があります。水が豊富で緑豊かな古い城下町、人口6万弱。そしてこのロケーションの中で行なわれるのが、愛媛県の三大祭りの一つ「西条まつり」なのです。「西条まつり」という名称は、伊曽乃神社(10月15・16日)を中心に、石岡(いわおか)神社(10月14・15日)、飯積神社(10月16・17日)の祭礼を総称してのものです。

さて話しの方は「西条まつり」のメインともいうべき伊曽乃神社の祭礼に焦点をあて進めたいと思います。まず驚かされるのは、この祭礼には楽車(だんじり)77台、御輿(みこし)楽車4台が奉納されるということです。こんなにたくさんの楽車が奉納される祭りは私は知りません。楽車とはいわゆる屋台で、屋根は切妻で前後に唐破風をつけ、2階又は3階造りのものがあり、彫刻も各所にほどこされ、更には白木のものの他、黒や朱の漆塗りの楽車もあり、それはそれは見事なものです。楽車1基の値段はナント3千万とか・・・。又、担ぎ手/地元では舁(か)き手/の衣裳もユニークです。ハッピは一般のものより丈が長く、帯はしめません。その下にラクダや毛糸ラメ入りのじゅばん、ももひき、腹巻きをつけます。その上にネルの腰巻きをまき、モスの兵児帯でしめます。足は地下足袋、帽子をかぶる者もおり、それもソフト帽です。とにかく、エエ?という出立ちなのです。さあ概要はお判り頂けたと思うので、続いては祭りの様子をご覧頂きましょう。

15日は神輿(みこし)の宮出しの日です。それを迎える為各地区の楽車は百余りの提灯にロウソクを灯し「ヨイトサ!」の掛け声、そして太鼓・鉦の音も賑やかに、伊勢音頭をうたいながら、まだ夜も明け切らぬ境内に集合します。その道行きの様子は、光の海といった感じです。そして境内ではより一層はやし、練り、神輿の渡御を迎えるのです。神輿の宮出しが終わると、夜明けと共に楽車は提灯をはずし、街へ繰り出します。このあとは、自由行動で、「花集め」と称し、御祝儀を集めてまわる為、更に賑やかに練り歩きます。

さあ16日です。16日早朝には宮出し同様に、楽車、神輿楽車が提灯のあかりに照り映えながら御旅所に集合し、そして全楽車(神輿も含む)が順番にその迫力ある美しい練りを見せます。それは夕方のクライマックスへの序曲と言っても過言ではなく、否応なしに期待感を盛りあげます。このあと楽車は神輿にお供して市内を巡行し、夕方加茂川べりに勢揃いし、神輿を送るのです。ここの光景は壮観です。堤上に居並ぶ楽車の群。夕日に照らされた楽車の陰影、宮入りに相応しく凛(りん)とした感じです。やがて神輿が到着し川へ入り神社への帰途につきます。とそこへ、十数台の楽車が川へ入り、神輿の宮入りを少しでも遅くしようと行く手を阻むのです。双方とも流れる水に腰までつかり、しぶきをあげてもみあいます。夕日をうけての堤上の楽車の数々、加茂川、もみ合う神輿と楽車、水しぶき、人々の歓声。それはまさに絵巻物の世界のようです。そして、神輿が川を渡り切り、祭りの幕は降ろされるのです。

町内へ帰って「祭りまで365日」と書く程、この祭りは生活の中に入りこんだ祭りなのです。

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

写真提供:西条市商工観光課
 

上岡さん、柳原さんご協力
有り難うございました!

 


 
9月の祭り
 
日本の祭り No.2     2000.9.15

藤崎八旛宮例大祭(随兵と飾り馬)  9月11日より15日・熊本市

祭りプロヂューサー 富坂 弘昭

火の国熊本。その県庁所在地である熊本市に秋の訪れを告げる祭りが、9月11日から15日まで開催される「藤崎八旛宮例大祭」です。そしてこの祭りは、一名「随兵」とも呼ばれます。「随兵」とは兵を従えるという意味。藤崎宮に平安時代から続いている神輿渡御の行列の儀式(神幸式)には古くから随兵が付いていましたが、朝鮮遠征から帰ってきた加藤清正軍も、無事生還を感謝して随行したと伝えられています。その随兵が行われるのが祭りの最終日、9月15日です。コースは、藤崎宮から御旅所までの約5キロ。朝の往路を朝随兵、夕方の復路を夕随兵といいます。行列には更に奉納を目的とする一団がつき従います。

その中に「飾り馬」がいるのです。神幸式が「静」なら「飾り馬」はまさに「動」。
紅白や、白と紺の飾りを背につけた馬を勢子達が追う激しいものです。もともとは、神社に奉納する馬を皆が追っていったことに由来するものです。本来の神幸式にとって本流ではありませんが、華やかさから祭りの主役になってしまった感があります。

さて9月15日の朝です。朝随兵は、午前6時に藤崎宮を出発。先頭は馬に乗った神宮。更にご神体を祀った三基の、神輿、太鼓や神具、そして鎧姿の随兵50人、長柄の槍50人、更には獅子舞、神輿と続き、一大歴史絵巻を見せてくれます。
そしていよいよ「飾り馬」の登場です。昨年(平成11年)の参加頭数は64、今年は65頭になるということです。勢子は町内会や企業、学校の同級生のグループで、1頭につき300人から500人です。行列の大部分を占める勢いです。さあ、スタートです。出発の合図は、それぞれの団体独自のものです。こんなのもありました。”それ行け発車!ピーポッポ!”これをキッカケにラッパが、”タッタッター・タタタタ!”と単純なメロディーを奏でます。すると、揃いのハッピ・ハチマキ・地下足袋の一団が、”ドーカイ・ドーカイ”と掛け声をかけながら速足で進みはじめます。鳴り物は他に鉦・太鼓。勢子は手に揃いの傘や堤灯。それをリズムに合わせて、差し上げます。馬は鳴り物の騒々しい音にびっくり!道路いっぱいに暴れ回ります。それを、これも見事に扱う口取り、そして馬が暴れるたびに背中の馬飾りがゆれます。それを見つめる沿道の人たちの熱気、馬の汗、そして勢子達の迫力が、祭りをぐっと盛り上げます。祭りの「静」と「動」が見事に絡みあった祭り、それが藤崎八旛宮例大祭なのです。

この祭りを境に、熊本では朝夕が冷えこんで来ると言います。人々はこれを「隋兵寒合(ずいひょうがんや)」といい、本格的な秋の訪れを感じると言います。
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

写真提供:藤崎八幡宮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


 
 
 
 8月の祭り
 
日本の祭り No.1     2000.8.22.

三本網からくり花火   茨城県筑波郡伊奈町

祭りプロヂューサー 富坂 弘昭
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夏祭りの主役といえば、それはおおかた花火ということになる。それは祭りというよりは、観光客誘致の為の花火の数、玉の大きさを競う、いわゆる花火大会になってしまっている。が、ここではそんな何万人も集まるような花火大会のことは忘れて、その土地、その地域の人々の間で密かに伝えられてきた、花火と人間が織りなす神への儀式としての祭りを紹介したい。
それは茨城県筑波郡伊奈町にある「三本網からくり花火」、通称「網火」である。ここ伊奈町には小張(おばり)松下流網火と高岡流網火があり、各流派の歴史と伝統を重んじたやり方で継承と奉納公開が行われている。因みに、高岡流は8月23日に松下流は8月24日にそれぞれの愛宕神社に、火防せ、五穀豊饒を祈願して奉納される。この「網火」、花火を使った神事として、ともに国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。

さて、本題の「綱火」とは、どういうものか。それは、古今の各種花火技術と、綱で操る人形芝居を組み合わせたものといえる。そしてそれが、一つの物語として、筋をもって展開されるのである。時に花火が人形を動かす様に見えたり、人形のそして場面の背景となったりする。櫓の上には囃子方と綱を操る人十数人が居て、囃子にあわせて一糸乱れぬタイミングで綱をさばく。そして花火の方が、素晴らしいタイミングで点火され、演出効果を倍増させる。
松下流を例にとると、祭りは口上ではじまり、一つ目は祝儀物「三番叟」が演じられる。二つ目は毎年決まって奉納される「大利根川の船遊山」です。囃子が入ると屋形舟が登場します。
舟の舳先からはかがり火さながらの花火が火を吹き、舷側の花火も点火され、波の上を進む屋形舟をあらわしています。舟が途中までくると裏打ちで、今度は山の仕掛けに点火です。山を背景に、利根川の波の上を進む屋形舟を見事に表現しております。そして更に屋形舟の軒の花火にも点火され、火の粉が降りそそぎます。これは雨乞いを意味しているといわれています。屋形船は、人々の託した願いをのせ、天高くまいあがってゆきます。

三つ目の演しものはだいたい創作物が披露されます。これはスケールが大きく、綱火の面白さを満喫出来ると言っても過言ではありません。今年は何が出てくるのか、現地へ行ってのお楽しみです。因みに私が見たのは「日高川の安珍・清姫」で、清姫が蛇になり、ちゃんと鐘入りしたのには驚きました。他には「桃太郎」、「加藤清正虎退治」などがあるそうです。

綱と人形と花火が夜空に織りなす、美しくて楽しい祭り「綱火」、そこにこめられた人々の願い、そして日本の花火芸能の奥深さを是非知って頂きたいと思います。
 


写真提供:伊奈町役場


 
 
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